0◆ No.4-特別版(かごめ歌の謎)

『かごめかごめ かごのなかのとりは いついつでやる よあけのばんに つるとかめがすべった うしろのしょうめんだれ』

この1つの童話に、いろいろな考察がありますので、ちょっと紹介していきます。

(1)『妊婦−流産−水子』
これは本編にも書いたモノです。
『かごめかごめ』は、「籠女」で妊婦を表しています。
『かごのなかのとりはいついつでやる』は、お腹の中にいる赤ちゃんがいつ出てくるかということを意味しています。
『よあけのばんに』は、「夜明け」と言っているのに「晩」と言っているのは不可解です。実は『ばん』ではなく出産を意味する『娩』なのです。
『つるとかめがすべった』は、鶴亀はめでたいコトの象徴。その鶴亀がすべったということは「流産」を意味するのです。
『うしろのしょうめんだあれ』は、後ろにいたのはこの世に生を受けることなかった水子の怨念でしょう。
度重なる飢饉にもかかわらず、領主は年貢を要求してくるため、農村の人達は食べるものがなく、飢えに苦しみ耐えぬいてきたのです。その犠牲となりやすいのが体の弱い小さな子供達でした。口減らしのため、あるいは流産によって可愛いわが子の命が失われていったのです。当然このような不満を堂々と漏らすことはできません。だからこのような歌に密やかに権力者への恨みを込めて歌い継いできたのです。

(2)『東天紅』
広辞苑によると、オニを囲む子らが「籠目」で、真ん中のオニの子が「鳥」だそうです。
この童謡、何か転回(反転)を感じさせる歌詞である。
「いついつでやる」(入る−出る)、「よあけのばんに」(夜明け−晩)、「うしろのしょうめん」(後ろ−正面)。しかしこれも、オニの交代を予感させているだけかもしれない…。とすれば、残った歌詞は「つるとかめがすべった」である。
「つる」は空を飛び、「かめ」は地を這う。すなわち「天−地」である。「すべった」は「統べる(支配する)」か「滑る」。と言うコトから、天と地が滑るように入れ替わると理解できる。
あと一つこだわるとすれば、「籠目」である。籠目とは籠の編み目のことであるが、これは本来入れ物ではなく、呪具である。籠を作る竹の文化は、東南アジアから中国南部、そして日本にも伝わっていて、いまでも東南アジアには、悪霊を祓う呪具としての「籠目」がある。逆に邪悪なものを封じ込める呪具として使われたのが、刑場の竹囲いや罪人を入れる籠である。祓いとしての「籠目」、それは三角形や六角形の「目」であり、目の力で悪霊を睨みかえすものである。土器などに刻まれた古代の三角形にはそんな意味がある。籠目が悪霊を遠ざけるものであるなら、同時に善き霊を招き寄せるものでなければならない。これが依り代としての髯籠(ひげこ)である。髯籠とは竹で編んだ籠の端をそのままにして髯のように出ているもので、鯉のぼりの吹流しはこれを模したもの。つまり鯉のぼりは髯籠の下に、鯉流し(幟り)が付いたものである。なお、入れ物としての籠は、そういう霊的な祓いと加護の中に大切な贈り物を入れるものとしてある。
さて、話を「かごめかごめ」の「夜明けの晩」に戻すと、童歌の意味としては先ほどのとおり、オニの交替を予感させているものでよいとしても、これは日本人にとって大変に重要な時間の表現である(だからこそ、わらべ歌にまで取り入れられたのだろう)。「夜明けの晩」とは何か。朝であり夜であり、朝でもなく夜でもない時間である。曉(あかつき)、即ちうす明るくなりかけて、しかし陽がまだ登らぬ時間帯である。
ではいつから「朝」なのだろうか。それは実に、鶏の鳴く声とともに始まる。これを『東天紅』と言う。この東天紅を知ることは神事にとって、非常に重要なことであった。
まずそのために神社に鶏が飼われた。宵に祭場にお招きした神々は東天紅までに天上に戻らなければならない。しかもその間際までは地上にいることがルールなのだ。タイミング良く、神を無事にお見送りすることが神官の腕の見せ所なのである。こうして祭りは夜明けとともに終わる。
昔の一日は夜から始まった。それは神の時間だった。夜は、(夕べ)−宵−夜中−曉−(あした)と続き、昼の時間(人の時間)は朝−昼−夕と続いた。ちなみに「朝廷」という言葉はもともと、「夜明けの晩」に宮城の内庭で開かれた宮廷会議のことである。神の時間から人の時間へ、つまり夢見などによって神託を受ける祭事から俗事としての政事への変換(転回)こそが、天皇の仕事であった。
この時間は後ちに、鬼や幽霊たちが本拠に戻る時間となる。朝をゆっくり過ごす鬼の話なぞ聞いたことがない。東天紅は神にとっても鬼や幽霊たちにとっても、この世に捨て置かれるか自分の棲み処に戻れるかどうかのギリギリの時間であった。神の祭りばかりではなく、悪夢や百鬼夜行も夜明けとともに終わるのだ。
歴史や価値とは、どうも堕落あるいは反転するものであるらしい。あの世からの客人も堕落し、神々はいつしか鬼や幽霊たちに取って替わられる。もとよりこれは歴史ではなく人間の側の問題である。いまは神に出会えなくなり、鬼や幽霊たちと出会う時代なのである。また、籠目も聖なるものを入れる容器から邪を入れるものに成り下がる。「かごめかごめ」では「オニ」が籠目に入る。江戸時代の囚人も「籠の中の鳥」である。
蛇足であるが、東天紅を告げるものとしての鶏は、その後中国祭事の影響を受け、「生き血の清め」に使われるようになる。これは結構流行る(神社の朱塗りはこの名残りかと推測する)。確実なところで言えば、伊勢神宮の「心の御柱」はかつて鶏の生き血によって清められていた(いまは鶏卵を供えるだけだ)。

(3)『日と月』
まず、「いついつでやう」を「いついつであう」と置き換えます。
そして、最初の「かごめかごめ」と最後の「うしろのしょうめんだれ」を無視して、
 かごのなかのとりはいついつであう
 よあけのばんにつるとかめがすべった
の部分だけ考えます。その理由は、この時の文字数33が「3×11」または「11×3」にしか素因数分解できないことに興味をもったからです。
この33文字を、3×11文字で次のように変則的(蛇行状)に表示してみます。
 かのといつあけつるすべ
 ごかりつでよのにとがつ
 のなはいあうばんかめた
これを横に読むと、
 彼の戸 何時 開けつる術
 御家律で予の二十月
 の名 俳翁 挽歌めた
となりますので、補足を入れて解説すると以下のようになります。
 あの戸をいつ開ければよいかの方法を述べている。
 私は家訓で二十ヶ月の間だけ「俳翁」という俳号(のようなもの)
 を名乗っていて、挽歌をたくさんつくった人物である。
この「戸」が開けられる時というのは「天の岩屋戸神話」のことを表していると推測しています。天照大神が天の岩屋戸にお隠れになったという神話のことです。
天の岩屋戸神話が「日食」のことを表しているという説があります。
そこで「夜明けの晩」は日食のことを表していると考えます。
『夜が明けているにもかかわらず晩のように暗い』からです。
次の「鶴と亀がすべった」の「すべる」は「統べる」のことだといわれます。
広辞苑で「鶴亀」を調べると『能の一。唐土の皇帝が春の節会の嘉例として月宮殿で鶴亀の舞を奏でさせ、自らも舞楽を舞う。月宮殿。』とあり、「月」を指しています。これは伊勢神宮の別宮である「月読宮」のことを表していると考えます。
伊勢神宮の祭神の天照大神が天の岩屋戸にお隠れになったのが日食であると考えると、その戸がすなわち月になります。
そして、暗号の「彼の戸」が天の岩戸のことだと考えると、「いつ開けつる術」というのは、天の岩屋戸神話そのものを表していると考えられるのです。
詞の前半にある「籠の中の鳥」は鳳凰の「鳳」という字を表していると考えます。「鳥」という字が「几」という『籠』の中におさまっているからです。
日本国内の鳳凰山を地図上で探したところ、山梨県と秋田県の二ヶ所にしかありませんでした。この二点を直線で結んだほぼ線上に出羽三山の月山があります。月山にある月山神社には月読尊という神様が祭られています。これらもまた「月」を指しています。
「籠の中の鳥が出会う」とは、この二つの鳳凰山を結ぶことだと考えます。
東京江戸城、栃木男体山、長野戸隠山、山梨鳳凰山の4点を結ぶと、かなり正確な平行四辺形になります。この平行四辺形が「籠目(籠のあみ目)」のことなのかもしれません。
男体山の別名は二荒山で、日光(二荒=にこう)のあるところです。
戸隠山にある戸隠神社には、天照大神の岩戸隠れの際にその岩戸をこじ開けた天手力男命が祭られています。
ちなみに、男体山、戸隠山、出羽三山は、いずれも修験信仰の山々です。
そして、暗号全体の文字数33にも意味があると思っています。
旧暦(太陰太陽暦)で、太陽と月の周期が一巡するのが33年周期なのです。
月の周期が29.5日で一巡し、29.5日×12=354日で、1太陽年とは11日ズレます。それが積み重なって11日×33=363日、つまり33年でほぼ1年分ズレるのです。
このように「かごめ歌」のキーワードは「日と月」なのです。
天照大神の岩戸隠れが冬至の頃の太陽を表しているという説もあります。
この場合にも天の岩戸を月に見立てることが可能です。
冬至の頃は、天照大神が支配する昼の勢力よりも月読尊が支配する夜の勢力の方が強くなっていると解釈できるからです。
この場合、「夜明けの晩」は冬至のことを表していると考えることになります。
冬至がいつであるのかを知ることは暦とも関係があり、太陰太陽暦の説も適用できます。そもそも、夜を支配する月読尊は、農耕、漁猟の暦をつかさどるための月齢を数える神とされているのです。
ここで、かごめ歌の“おもて”の文章を整理します。
「籠の鳥が出会う」=「月山」
「夜明けの晩」=「日食」「冬至」
「鶴と亀が統べる」=「月読宮」
問題は、最後の「後ろの正面誰」についてです。
“おもて”の文章が指している“誰”は、月読尊のことを表していると考えます。
日食において太陽を後ろにして月が正面に見えるので、「日」の後ろの正面が「月」であると考えるのです。
また、冬至においては、昼の時間よりも夜の時間の方が長いので、「昼」の後ろの正面が「夜」であるとも考えられます。
これらは、「天照大神」の後ろの正面が「月読尊」であることを表していると推測できるのです。
“うら”の文章が指している「俳翁」が“誰”なのかはわかりませんが、江戸時代くらいに神話を研究していた俳人・歌人の中にいると思っています。

(4)『埋蔵金暗号』
いろいろな説の中でもこれは結構面白いと思う。
皆さんは「徳川埋蔵金」を覚えているだろうか?
或るTV局の全面的なバックアップのもと、幕末に赤城山に埋められたのではないかということで、同地がが大きく掘り返されたことは記憶に新しい。結果は、はっきり言って、期待外れだったが…。
常識的に考えれば、あのような大土木作業を要するような場所に埋蔵されるわけなどあり得ない(何故なら、埋蔵金は有事(幕府存亡の危機)において、容易に掘り出すことを前提にして隠されている。)コトなのだが、期待しながら見てしまった自分を、今となっては情けなく思っている。
この「埋蔵金」、実は赤城山ではなく「日光東照宮」という説もある。
その「徳川日光埋蔵金」説の根拠となっているのが、天海が作ったと根強く信じられている童謡『かごめかごめ』の何か暗号めいた謎解きのような歌詞にある。

かごめ かごめ
かごの中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀がすべった
うしろの正面、だあれ

この歌には二番歌というのもあるらしい。

向こうの山で 鳴く鳥は
信心鳥か ニワトリか
銀三郎のお土産に 何と何とを買ってきた
金ざし かんざし 買ってきた
納戸のおすまに置いたれば きうきうネズミが引いてった
鎌倉街道の真ん中で 一抜け 二抜け 三抜け さくら
さくらの下で文一本ひろった
あくしょ あくしょ 一本よ

なお、歌詞には次のような、違った歌もある。

向こうの山で 鳴く鳥は
信心鳥か ニワトリか
金三郎はお土産に 何と何とを貰った
金ざし かんざし 貰った
納戸のおすまに置いたれば きうきうネズミが引いてった
その文だれだ 金三郎の妻だ 
金三郎の妻はさんしょにむせた

それにしても、よく分からない、理解しがたい歌詞である。
日本民俗事典(弘文堂)によれば、童唄には「遊戯唄」「子守唄」「天体気象の唄」「動植物の唄」「歳時唄」「呪(まじな)い唄」などがあるという。
確かに「かごめかごめ」という童歌は、「しゃがんで目をふさいだ一人を籠の中の鳥に擬し、周囲を他の数人が手をつないで歌いながらまわり、歌の終ったとき、中の者に背後の人の名をあてさせ、あてられた者が代って中にうずくまる。」という児童遊戯のための歌で、私も幼い頃に遊んだ記憶があり、全国的に知られている。
私自身、特に、この歌詞の意味に何の疑問も持っていなかったのだが、十数年位前、あるテレビ番組が「かごめかごめの謎」で、この童歌を取りあげ、古峰ヶ原湿原に徳川埋蔵金があるのではないかという番組を作って以来、なぜか気になっていた。
そして、数々の資料を整理している中で、この歌詞が再度気になりはじめ、そして、日光東照宮には確実に徳川家康、家光の御用金が眠っているという確信を持ち始めたのである。
謎解きの前に歴史の勉強を少し。
空海の「性霊集」によると、日光輪王寺は、天応2年、勝道上人が難行の末、二荒山に登頂し、四本竜寺を建立したのが輪王寺の前身と伝えられている。
日光の地名は二荒(にこう)の音読みによるといわれ、勝道上人の開山をきっかけとして平安時代以降、山中の修行による呪力の獲得と自然との一体化による即身成仏を目的とした山岳信仰と修験道の神仏混淆聖地としての二荒山神社信仰が関東一円にひろまっていった。
男体山の山中には砂鉄層があり、中禅寺湖畔の中宮祠付近では、古代、製鉄が行われていた地名が残されているということからみても、その歴史と役割は古くから大きなものがあったようである。
天海が家康を日光に祀ったのは、家康の遺言からだが、ではなぜ、家康は最終埋葬地を日光として望んだのだろうか・・・。
最初の埋葬地が久能山であったことは、久能山が家康の生誕の地に近いことから理解できる。
秀吉の時代において、日光山は荒廃していた。
天正18年、秀吉の小田原攻めに際し、日光山が後北条氏に荷担したことによるものであり、徳川政権誕生後、改めて、天台僧の天海によって復興されていったのだ。
日光は江戸の街にとって重要な地であった。
江戸の街は8世紀末、桓武天皇が京都につくった平安京に倣って、陰陽学の四神相応の原理に基づき、天海の天台密教の加持祈祷による幕府護持の法力によって作られたと伝えられている。
東に青龍(川:利根川)、南に朱雀(海:東京湾)、西に白虎(道:東海道)、北に玄武(山:日光連山)の神が宿る地の利を得、この中心に江戸城が置かれている。
街の基本的配置は、江戸城本丸を中核として「の」の字を描くように右渦巻き状の堀を掘り進めて行き、その堀に五街道を組み合わせて整備している。主要となる箇所には街を鎮るための祈願所として神社仏閣を配置した。
これら神社仏閣は何時でも江戸城の出城として使用することができるように設計されていたという。
そして、日光はこの延長上にあり、天然要害の地の利を得た徳川幕府最後の砦となりうるところなのである。
従って、日光東照宮の配置も相当な法力によって決定されていると考えて良い。
天海はこの遺言に従い、山王一実神道に則って「東照大権現」という神号を朝廷から貰い受けて日光山に祀るとともに、代々の将軍は「日光参詣」を行うことによって、家康を徐々に神格化していったのだった。
山王一実神道とは、天台宗の基本的教理「三諦即一」(「空・仮・中」の三諦は本来ひとつであるということ)を「山」の字が縦棒3本に横棒1本、「王」の字が横棒3本に縦棒1本で書かれていることから「山王」という字によって表すもので、比叡山延暦寺の鎮守社である日吉大社(滋賀県大津市坂本)を仏の垂迹神として信仰する、天台宗の僧侶にとっては必然とされている神道である。
日光東照宮の陽明門は、北極星の真下にある。
古代人は北極星を神格化し、妙見神としていた。妙見神は国土を擁護し災害を滅除し、人の福寿を増す力を持つという。
日光付近には、興味深い名を持つ山が多い。
『鶏岳』、『鶏鳴山』、『赤雉山』、『鳴虫山』、『鳴蟲山』、『夕日岳』、『地蔵岳』、『六郎地山』、『石裂山』、『庚申山』、『鞍掛山』、『火戸尻山』、etc・・・
日本地図を探しても、これほど面白い地名に出会うことは少ないだろう。
これらの名前が、何に由来しているのか? そして、いつ頃、名付けられたのか・・・
日光開山後、しかも、江戸時代に入ってからというのが自然な考えだろう。
日光東照宮造営に際し、全国から集まってきた宮大工らの職人達の中の数奇者によって名付けられたのだろうか。
或いは天海らが、陰陽道(おんみょうどう)に則って名付けたものなのだろうか。
陰陽道とは、天体の運行や方位から国家や個人の吉凶禍福をうらなう技術である。
その思想と理論の源流は古代中国周王朝に成立した易で、日月と木火土金水の陰陽五行説を基礎に十干十二支説がむすびつき、天文や暦の知識もくわえ、未来予知のよりどころとなっている。
陰陽頭は福をまねき、災いをさけるために、いつ・いかなることをすべきかを説き、また時と方位から吉凶をうらなったという。さらに国家安泰のための改元を進言したりもした。
武家政権の成立後は、幕府の職制の中にも大きな位置を占め、陰陽思想は中世を通じ武家にも深く浸透していった。合戦での方角・日時の決定にも利用されている。
日光付近の興味深い山の名称について、仮に、天海或いは修験者等がが名付けたとするならば、この陰陽道に則っていることが考えられる。
実際、これらの山をある法則に従って線で結んでみたところ、東照宮の位置はこの線が交わってできる範囲の内に位置していた。従って、その可能性については否定できない。
ここで、本題の「かごめかごめ」の歌に戻ってみることにする。

一.
かごめ かごめ
かごの中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀がすべった
うしろの正面、だあれ

二.
向こうの山で 鳴く鳥は
信心鳥か ニワトリか
銀三郎のお土産に 何と何とを買ってきた
金ざし かんざし 買ってきた
納戸のおすまに置いたれば きうきうネズミが引いてった

(二.)
向こうの山で 鳴く鳥は
信心鳥か ニワトリか
金三郎はお土産に 何と何とを貰った
金ざし かんざし 貰った
納戸のおすまに置いたれば きうきうネズミが引いてった

三.
その文だれだ 金三郎の妻だ 
金三郎の妻はさんしょにむせた

四.
鎌倉街道の真ん中で 一抜け 二抜け 三抜け さくら
さくらの下で文一本ひろった
あくしょ あくしょ 一本よ

ちょっぴり謎解きをしてみよう。

一番の歌詞には、陰陽が存在していることがわかります。
籠の中→出る(内と外:捕らわれと解放)
夜明け→晩(太陽と闇)
鶴→亀(天と地)
出る→滑る(成功と失敗)
後→正面(前後)

東照宮の中には、陰と陽に関わる彫刻が多い。
鶏、籠、鶴、亀等々の彫刻及び銅像が存在しています。
特に、眠り猫の門を通り、奥の院に向かって階段を上ると家康の納骨堂があります。その前の小さな池には、鍵をくわえた鶴と亀がいます。
また、ニワトリは昔から黄金を象徴する鳥として知られています。

二番と三番は、こじつけて読めば、金に関わる歌詞です。

「向こう山で鳴く鳥」に対応するする山として、先に紹介した『鶏岳』、『鶏鳴山』、『鳴虫山』、『鳴蟲山』があります。
「さんしょ」は三つの所

四番の歌詞は特定の場所を表しているようです。

「一抜け、二抜け、三抜け さくら」を東照宮の門に当てはめると、
一、表門を抜け、
二、「唐子遊び」と呼ばれる子供たちが戯れる彫刻のある陽明門を抜け、
三、唐門を抜けて拝殿に至ると、
拝殿には桜に飾られた三十六歌仙の彫刻があります。「唐子遊び」は「かごめかごめ」遊びを表しているのかも知れません。
「さくら」の「さ」を拾い上げると「くら(蔵)」になります。さらに「くら」にかかわる山としては「地蔵岳」があります。
「さくら」の真ん中一字を拾い上げると「さら」になり、「さら」は「申」となり、「庚申山」があります。
最後に「さくら」の最後の一字を拾い上げると「さく」になり、「さく」は「裂」となり、「石裂山」が当てはまります。
「あくしょ」とは、難所、険しい所を表します。

もし、貴方が400年ほど前に生きていて、危機管理を目的として、財宝を隠す場合、どのような場所を選択するでしょうか?
私ならば、
1.隠す時、及び取り出す時に安全でかつ容易であり、遮蔽が効く場所
2.隠した後も、常時、監視出来る安全な場所
決して、大木の根元に埋めたり、湖底に沈めたり、山中を分け入って埋めたり、必要時に取り出すために大土木作業を要するような場所を選択することはないだろうと思います。
お家興亡の危機に、そのような時間的余裕などあるはずがありません。このように考えると、なぜ、徳川埋蔵金が日光東照宮にあるのかという疑問に対する答えになると思います。山中に埋蔵していたとしても、坑道の跡のような場所です。
「かごめかごめ」の歌を天海が作ったという証拠はない。
むしろ、この唄の起源は江戸時代の『竹堂随筆』という童謡に関する最も古い文献によると、千葉県野田地方らしい。
日光東照宮の造営に関わった、宮大工が山で見たままを歌に託して伝えたのかもしれません。
あるいは・・・
いずれにしても、日光東照宮に無関係な歌詞であるとは思えないのです。
結論です。日光東照宮の中にそれらしき場所と建物が存在しているのです。
恐らく、建物内部の床石を剥がすと、その中には・・・

(5)その他
「カゴメ」とは籠の目、三角形を2つ合わせて六芒星の形になりますね。
これは仏教でいうところの六道を意味します。六道とは輪廻の世界のことで、お釈迦様が仰られたように苦の世界です。
「籠の中の鳥」とはまさしく、私たちやご先祖様、輪廻の世界の住人のことですね。
「いついつでやる」いつ輪廻の世界から抜け出して本当の世界に帰るのか、夜明けの晩とは不思議な表現ですがその時期を表しています。
「鶴と亀」は四神獣の朱雀と玄武、すなわち方位を示します。
つまり南北がすべった。おそろしい表現ですが、すべったは滑った、すなわち極ジャンプのことと言われています。
つまりこの歌は、古い時代の終焉、全く新しい時代の夜明けを意味する歌なのでね。

かごめかごめ   >お腹の中のかわいい子供よ かごの中のとりは
いついつ出やる  >お腹の中の赤ちゃんはいったいいつ生まれてくるのだろうか
夜明けの晩に   >夜なのに夜明けのように明るい晩に 鶴と亀が滑った
後ろの正面だぁれ >私達が滑り落ちた階段で後ろから突き落としたのは誰だ
※「鶴と亀」は「母親と子供」を表します。『身ごもった嫁を恨んでいる姑が、夜中に(神社・お寺などの)階段から嫁を突き落とす』 と言う話。

神降ろしの際に行われる儀礼だそうで。 真中にいる人物は依り代の役割を果たし民間で行われる一種の口寄せだとか…
篭の中の鳥(鶴)>女郎
いついつでやる >いつ落籍できるだろうか?
亀       >女郎と恋仲になった裕福ではない男
〜がすべった  >置屋から逃げようとして転んだ
後ろの〜    >花街の警備をしている人たちが追いつく つまり借金を踏み倒して好きな男と逃げようとするが失敗したなどの説です。
あとは村で飢饉が流行り子供を間引きするために行った行事だとかで、村長を真ん中にしてその歌を踊り歌い終わった時に村長の後ろにいた人が間引きされるとか…。

どの説が本当かはわかりませんが、童謡1つにこれだけ沢山の説があります。
他にもいっぱいありましたので、いろいろ調べてみると面白いかもしれませんね。

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